昭和42年(1967年)9月、電子専門学校を卒業した。
その学校での同級生の友人が、就職先の都合で それまで住んでいたアパートを引っ越すというので、六兵衛が引き続き そのアパートを借りて住むことになった。
国鉄 飯田橋駅(当時)の西口を出て、神楽坂(早稲田通り)を 1kmほど上り、新宿区横寺町の朝日坂の途中を右に折れて、細い路地に入ると、そのアパートはあった。
2階の3畳ひと間、小さな台所が 入口ドアを入ったすぐ横にある、それだけの部屋だった。
アパート2階の住人が共同で使うトイレが、六兵衛の部屋の押入れ部分に食い込んでいて、ますます部屋を狭くしていた。
当時(昭和40年頃)の新宿区横寺町のアパートあたりの写真が ないものかとネットで調べてみたら、1枚だけ 場所は分からないが、横寺町の写真が見つかった。.jpg)
この写真の場所が何処なのか、ネットで調べてみた・・。
話は少々 横道にそれてしまうが、まず この写真の画面中央の やや 右寄りに、時代がかった立て札があるが、書かれている文字は消えいて、残念ながら何が書かれていたのか解らない。
画面の右隅の建物の2階の壁には、小振りな垂れ幕(A)が ぶら下がっている。
その下には、映画館のポスターを張った掲示板(B)が見える。
それぞれを 拡大してみた。
垂れ幕(A)は、「パーマ ミハル美容室」とある。
その「ミハル美容室」をネットで探してみると、横寺町の朝日坂を、奥へ もう数百メートルほど進んだ辺りの、新宿区矢来町という町に、同じ名前の美容室が 今もあるようだ・・。
とはいえ この古い写真に写っている垂れ幕に書かれた「ミハル美容室」は、60年ほど前の営業なのである。
今の矢来町にある「ミハル美容室」を「Apple マップ」の航空写真で見てみたが、今回「横寺町」として見つかった60年前の写真と比べてみると、家並みの雰囲気は大きく異なっている。
何しろ60年も前の写真である。
六兵衛が住んでいた横寺町も大きく様変わりしているように、垂れ幕に書かれていた「パーマ ミハル美容室」が、仮に今の矢来町の「ミハル美容室」だったとしても、あまりにも家並みの雰囲気が変わりすぎているので、結局 この古い写真の場所が何処なのか・・正確には解らないままである。
もうひとつ、映画館の掲示板(B)に貼っているポスターの内容を拡大して調べてみたら、タイトルが『鼠小僧次郎吉』と読める。
ネットで この映画のことを調べてみた。
昭和40年(1965年)に大映が制作した『鼠小僧次郎吉』という時代物の映画のようである。
(主演:林与一、監督:三隅研次、原作:大佛次郎)
昭和40年頃の、この付近で この映画を上映している映画館を調べてみた。
新宿区二十騎町という名の町にあった「牛込大映」と、神楽坂の「神楽坂銀鈴座」の2軒が見つかったが、果たして どちらの映画館で上映されていたのかは 定かではないのだが、大映の映画だから「牛込大映」で上映されたと考える方が確率は高いかもしれない。
そして 最後に、(C)の この写真自体を、何かの媒体に掲載したと思われる企業の名前が、多分 右下に黒文字で書かれていたのではないか・・。
微かに読める文字もあるが・・始めの文字は見づらいが、◯ ◯ 飯田橋( )◯ ◯ 新聞社・・と読めそうである。
読めそうな文字を緑色の文字で改めて書いてみた・・。
「◯◯ 飯田橋( )◯ 田新聞社」・・と読めたのだが・・。
そこで またまたネットを利用して、飯田橋界隈に新聞社があったかどうかを調べてみた。
昭和40年(1965年)前後の飯田橋の近隣には、飯田町貨物駅があったらしく、新聞用紙を運ぶ拠点として、新聞社の印刷・出版関連会社が多くあったらしい。
そう云えば六兵衛も 専門学校へ通っている頃、小さな製本屋さんで アルバイトをしたことがあった事を思い出した・・。
ネットの情報によると、飯田橋の近辺にあったのは、東京新聞社、毎日新聞社(印刷所)、日本経済新聞社 等々の名前が出てきた。
それを知って、改めて読みづらい文字を読んでみた。
「◯◯ 飯田橋( )毎日新聞社」とも読めなくもない。
そんなこんなで、結局 六兵衛が暮らしていた頃の昭和40年ころの横寺町の写真は、あやふやなまま 終る事になってしまった。
しかし 昨秋の9月、孫次男が東京へ行く予定があるというので、ならば ついでに 神楽坂を上って横寺町のアパートのあった辺りの写真やビデオを写して来てくれるように頼んだ。
孫次男が東京の友人と二人で写してきてくれた写真や動画には、当然ながら 昔の面影は ほとんど 無いが(但し、ブロック壁は 当時のままのような気がするのだが・・。)60年後に孫次男が神楽坂を上り、横寺町の辺りを歩いてくれた。
今の孫次男と同じ年頃だった60年前の六兵衛が、短い間だったけれど この町を歩いていたのだ・・と、まぁ そんな時の流れを感じてくれたらと・・年寄の甘えだろうが。
ついでに記しておくと、専門学校を卒業して勤め始めたのは、品川区五反田にあったストロボ会社(今は もうない・・)で、先輩について写真スタジオなどへ行き、写真撮影で使うストロボの修理の仕事だったが、まったく面白くなかったから、40日程で辞め、あとは 時々アルバイトをしながらの、プー太郎 生活だった。
次回の「続々続・遠い昔を思い出す」は、東京で4番目に暮らした北区神谷町である。

















