「落暉に燃ゆる」

8月に辻堂 魁さんの新しい時代小説『落暉(ゆうひ)に燃ゆる

大岡裁き再吟味』(講談社時代小説文庫)が発売されていて

その中古本が、先日 手に入り・・読み終わった。

 

大岡越前守忠相(ただすけ)は還暦を迎え、寺社奉行となったが

なぜか突然 気鬱に襲われた。

その原因とも思えるのが、南町奉行時代の自分の行った事件の

裁きが、本当に正しかったか どうか?・・との疑念が芽生えた

からだ。

 

この物語のタイトルに「大岡裁き再吟味」との副題が付いてい

るように、今は寺社奉行となった大岡越前守が、南町奉行時代

に扱った数々の事件のうち、今になって気になりだした事件の

洗い直しを、千駄木組鷹匠組頭・古風昇太左衛門の十一番目の

息・古風 十一(さきかぜ じゅういち)に命じることになる。

 

物語の主人公は、当然 大岡越前守と、実際に事件を洗い直す

ために動く古風 十一(さきかぜ じゅういち)である。

辻堂 魁さんの作品らしく、古風 十一の 奢らず 慌てず丁寧に

進める調査の過程での、心情や情景、風情などが たっぷりと

描かれていて、古風 十一という若者には、六兵衛が大好きな

市兵衛さんに どこか似た印象があって、嬉しく 楽しい・・。

 

そして何より、六兵衛のいつもの昔話になるが・・

この物語にも、遠い昔の六兵衛が暮らしていた頃の懐かしい

東京の町の名前が出てくるので、ブログに載せる事にした。

 

物語 第二章「高間騒動」の118ページに・・

『 ところで、と雄次郎左衛門は言った。

「田無までのいき帰りで、疲れておるだろうし腹も減っておる

だろうが、おまえに合わせたい男がおるのだ。

これから出かけるのでも、かまわぬか」

「わたくしは慣れておりますので、大丈夫です。どちらへ」

「牛込御門外の、神楽坂の先の肴町だ」

牛込御門から神楽坂をのぼって通寺町への往来を隔てて

肴町の向かいは行徳寺などの門前の町家が続き

肴町内へ曲がる角の自身番の前には高札がたっていた。

暗くなって冷え込みが激しく、弓張月が巽の空に冴えざえと

輝いていた。

武家屋敷が続く狭い通りを挟んで、肴町の町家が軒を並べ

通りから路地へ入った二階家が三戸並ぶ奥の一戸が金五郎の

店だった。

台所のある勝手にいた女房が、台所から寄り付きにきて

「おや、岡野さま、おいでなさいやし」と、あがり端に手を

ついて雄次郎左衛門を迎え、隣の深編笠をとり才槌頭を見せて

いる十一に 笑みを向けた。

四畳半の寄付きに二階へあがる階段があって、その板階段を

軋ませ、声を聞きつけた金五郎がすぐに降りてきた。』

【注】
雄次郎左衛門:性は岡野、大岡越前守の番頭各の家来
田無:たなし(現在の西東京市)
肴町:さかなまち(現在の神楽坂5丁目)
通寺町:とおりてらまち(現在の神楽坂6丁目)

 

この物語の年代は江戸時代中期で、江戸末期の嘉永年間に出版された
「江戸切絵図」(金鱗堂・尾張屋 清七 版)では、時代的に正確とはいえないが
雰囲気は伝わるかもしれないと思い掲載した。

物語文中の「行徳寺」という名前の寺は切絵図にはないが
「行元寺」という寺があり、別の「切絵図」には
同じ場所に「行願寺」と彫られているものもあった。

天明3年(1783年)、この「行元寺」の境内で百姓の富吉が親の仇の甚内を
討ち取った事件があり、「天明の仇討ち」として有名になった寺だともいう。

 

だらだらと長くなるが、書きたいことが もう一つある。

若き主人公の名前が「古風 十一」とある。

この名字「古風」が「ふるかぜ」とか「こふう」とかではなく

小説内では「さきかぜ」とルビが振ってある。

未熟な六兵衛ゆえに、「古」の文字を「さき」と読むのは

初めてで、だからWebで その辺の事を調べてみたけれど

「古」の文字を「さき」と読むなどの、そんな記述は何処にも

見つけられなかった。

六兵衛などより はるかに学識のある作者の辻堂さんが

そう付けられたのだから、間違いなどないはずなのだ。

 

・・と、もしかしたら・・の考えが六兵衛に浮かんだ。

例えば 例えばのはなし、数分前に吹き去っていった風は

今 現在 吹いてる風に比べると、過去の「古い風」ということ

になる。

「今」より「先」に吹いた風は、もう「古い風」だ。

先(サキ・サッキ)の出来事は現在に比べると古い・・

となると、「古」は「サキ・サッキ」ということだ。

ちょっと理屈っぽいけど、「古風」と書いて「サキカゼ」と

読めなくもない・・と、了読後に思い至った。

六兵衛が以前 作っていた「大衆娯楽小説は文庫本で」というブログの中の
2012年の秋の頃に「さし絵」として掲載していた140作目のカット絵。

 

ただ この物語を読むあいだ中は、フルカゼ・・と読みそうに

なるのを、その都度 サキカゼ・・と口の中で言い直しながら

その名前「サキカゼ」に慣れるための 努力を要した・・。

もし・・この物語がシリーズ化されるのなら

第2巻、第3巻と続いていくうちに、迷いもなくキット

「サキカゼ」と読めるようになると思いますョ、辻堂さん。