序 お犬姫見参
『四谷の大木戸をこえて伝馬町をぬければ、江戸城の外堀に
つきあたる。左へ折れ、満々と水をたたえた濠にそって北へ
むかう。 牛込御門を横目で見ながらしばらく行くと江戸川だ。
橋を渡り、片側に武家屋敷がつらなる川沿いの道を左へ進む。
秋もたけなわ、河原では葦が涼風に たなびいて・・・』
と、文庫本『元禄 お犬姫』の書き出しである。

諸田玲子さんの文庫本『元禄 お犬姫』(中公文庫)の
書き出しの文章に、六兵衛には懐かしい土地などの名前が
出てきて嬉しくなり、性懲りもなくブログに書きたくなった。
五代将軍・徳川 綱吉が発した「生類 憐みの令」。
例え 野犬でも「お犬様」と呼ばれ、大切にされた時代。
中野村に作られた大規模な お犬小屋「中野御用御屋敷」
(お囲)で、犬小屋支配の助役を勤める森橋弾正右衛門と
その家族。
しかし母親の佐知が病がちなため 療養を兼ね、小石川で
剣術道場を営む堀内源左衛門の離れを借りる事になり
父親と兄は仕事で中野村を離れるわけにはいかないので
母の佐知、祖父の善右衛門、弟の善次郎、そして どんな
犬でも たちどころに手なずけてしまう事から「お犬姫」と
呼ばれている知世らの一行が、中野村の役宅から小石川に移り
住むための移動中に起きる出来事から 物語が始まる。
《下の地図はクリックすると別枠で大きくなる》

「江戸切絵図」などを合成し、名前や矢印などを入れる。
独りよがりだが、そんな作業が なんとも楽しい。
「立慶橋」や「神楽坂」の近所の●の中の「イ」の場所は
六兵衛が若い頃、初めての東京で暮らし始めた「後楽」で
●の中に「ロ」は1年半ほど暮らした「関口」という町
●の中に「ハ」は「横寺町」、ここも1年ほど暮らした。
そこで思い出すのは 4年ほど前、2018年3月28日の
当ブログ「江戸川に架かる「立慶橋」」にも書いたが
その頃 読んだ、池波正太郎さんの文庫本『堀部安兵衛 上・
下 巻』の下巻の 11ページ目あたりに・・
『 小石川の水戸屋敷の北から西へかけて、江戸川が流れて
いる。この川は神田上水の枝流であって、北から西へ
いくつもの橋がかけられているが、江戸川が江戸城の濠へ
合流しようとするあたりに舟河原橋があり、その一つ手前
の橋を立慶橋とよぶ。
( 中略 )
堀内道場は立慶橋の東詰、松平讃岐守下屋敷と通りを
へだてた南側にあった。
このあたりは幕臣の邸宅が多く、堀内道場も以前には
斎藤長十郎という旗本の屋敷だったという。
( 中略 )
広沢と安兵衛が、立慶橋を東へわたりかけたとき、
向こうから来た武士が立ちどまり、にこにこ とこちらへ
笑いかけてきた。
その武士は、奥田孫太夫であった。』・・・とある。
『元禄 お犬姫』と『堀部安兵衛』、この二つの物語には
赤穂浪士の話が登場する。
そして、多くの赤穂藩の武士が通っていたとされる
「堀内源左右衛門の道場」の場所がどちらにも登場するが
『元禄 お犬姫』では「小石川龍門寺門前町」とある。

『堀部安兵衛』では、立慶橋の東詰「松平讃岐守下屋敷と
通りを隔てた南側・・」とある。

「堀内源左右衛門の道場」の場所が、二つの物語で違っていた
としても 大した問題ではなく、短い間だったけれど六兵衛が
若い頃に暮らした懐かしい場所が、江戸の元禄の頃を描いた
二つの物語に登場したのは、懐かしく うれしい。
六兵衛が住んでいたのは、それらの物語より はるかに後の
昭和の、それも わずか数年の間の事なのだが・・それでも
ひとり 悦に入るのである。