最後の清流といわれて久しい四万十川が、四国西部の山間いを
蛇行しながら流れる その、四万十川中流域の津野川集落で
愛媛県 滑床(なめとこ)渓谷方面から流れてきた目黒川が
四万十川に合流している。
その合流する目黒川に沿って、県道8号線を10kmほど上流に
進んだ辺りに、小さな小さな集落がある。
歳を重ね、日々に老いを感じ始めたからなのか
それとも 元々、後ろを振り返りたがる性格だからか
過ぎ去った 遠い遠い昔を、事あるごとに・・いや、事が無くても
懐かしく思い出す六兵衛である。
その集落は、遠い遠い昔の 六兵衛が まだ子供の頃の
小学校4年生・5年生・6年生の3年間を過ごさせてもらった
思い出深い山河の地である。
六兵衛が60歳を いくつか過ぎた頃に、その小さな集落の
最後の見納めになるだろうとの想いから、四万十市の実家に
墓参のために帰省した折に、車で少し足を伸ばし
つれあいと二人で その集落の山河を訪れた。
それも もう、20数年も前のことになってしまった・・。
六兵衛が暮らしていた昭和30年代の始めの頃
県道8号線の集落の中心部あたりのバス停から
切り開いた小高い山の上に上ると、その小さな小学校はあった。
当時は、職員室と教室を合わせても4室だけの平屋の木造校舎で
運動場も小さく狭かったが、それは 終戦後すぐの頃に
この村の青年団の若者たちが、これからは学校教育が大切だとの
強い思いから、休日を返上して4年間もの長きにわたって
力を合わせ山を切り開き、校地造成の努力をされた結果なのだと
教えてもらったことがある。
3つの教室は1・2年生、3・4年生、5・6年生が
それぞれ 1つのクラスで勉強をする複式学級で
全校生徒は50人足らず、先生は校長先生を入れて4人の
小さな小学校だった。
秋になると小学校の運動会が小さな校庭で行われたが
それは校区内の村人総出の お祭りでもあった。
夏は目黒川がプール代わりで、岩の上から飛び込んだり
魚を捕ったりして、真っ黒になって遊んだものだ。
六兵衛が卒業した数年後には、時代の変化と共に狭かった校庭を
少し広げて「僻地集会所」を併設し、給食も始まり
平屋だった校舎の一部が2階建となり、プールも出来たという。
そして六兵衛の卒業から25年後の昭和59年
新たに大きく山を切り開き、老朽化した旧校舎を見下ろす
高台に12の教室と体育館やプールもある立派な新校舎が
建設され、翌年には 小さい学校ながら開校百年という節目を
迎え、『百年誌』を出版して 「開校百年祭」を祝ったという。
〈 Googl地図 参照〉
白色点線:昭和59年に新しく出来た校舎とグラウンドとプールの学校全景
(残念ながら現在は 休校になってしまった・・
黄色点線:昭和30年代の六兵衛が通っていた頃の小学校の校舎とグラウンド
青色点線:その当時の木造校舎部分
桃色点線:六兵衛家族が暮らしていた住宅
しかし それでも結局、児童数の減少が続き
平成23年度(2011年度)の卒業を最後に休校となり
今では10数キロ離れた江川崎にある小学校に統合され
子供達はバスで通学しているという。
六兵衛の第2の故郷ともいえる山河は 遥かに遠く
しかし いつになっても懐かしく、想いは消える事はない・・。
『♬ 兎 追いし かの山 小鮒 釣りし かの川 夢は今も巡りて
忘れがたき故郷・・』
まさに小学唱歌『故郷』の歌詞 そのままである・・。