孫長男のInstagram

社会人となって、丸1年が過ぎようとしている孫長男。
学生時代には、割と緊張を強いられそうなアルバイトを経験してきていると思う。
だから例え 社会人1年目といえども 孫長男なら、頑張って乗り越えられるだろうと、多少の心配と期待とが入り混じったような、そんな心持ちの六兵衛ジーさんである。

さて孫長男の「Instagram」での、アカウント アイコンのプロフィールは、1970年代の「月刊 少年ジャンプ」に連載されていた野球漫画『キャプテン』(作者:ちば あきお さん)の登場人物の「丸井」が、感動して涙を流しているマンガ絵を使用している。


「丸井」は、ひたむきに努力を重ねる先輩キャプテン・谷口の姿に影響され、自らも一人 自主練習を始め、谷口も驚く見事なプレーを見せるようになる。
そんな努力家の性格を買われて丸井は、谷口が卒業した後のキャプテンになる。
「丸井」を自分のプロフィールに使用する孫長男の想いが、六兵衛には伝わってくるような気がする。


20年ほど前の孫長男が まだ幼かった頃に、何度か散歩で行った事のある公園で、成長した孫長男と、老いた六兵衛とつれあいの3人で並んで写した。

 

孫次男の「Instagram」

孫次男の「Instagram」での、アカウントアイコンのプロフィールに、孫次男のアフロヘアーの写真を用いている。

孫次男のアフロヘアーは、爆発しているかのように なかなかに激しい・・。
1年ほど前から始めたように記憶するが、以後 孫次男に会う度に、六兵衛と同じように『丸刈りにしろよ! 丸刈りは良いぞ!』などと勧めるのだが、どうやら爺さんの丸刈りへの勧めは効果がなく、今のところ アフロヘアーを止めるつもりはないようだ。

今でこそ六兵衛も 丸刈りが常の髪型だが、若い頃はアフロヘアーとまではいわないが、チョンマゲが出来るほどの長髪にしていたりして、よく親などに『鬱陶しいから 短く切れ!』などと、度々 云われたりしたものだった。

だから六兵衛が、今更 爺さん面して『丸刈りにしろよ!』と云うのも勝手なものだし、どちらかといえば、六兵衛が そんな勝手な事を云っても、孫次男は許してくれるだろうとの、まぁ 六兵衛の孫への甘えみたいなものか・・と、思ったりしている・・。

正月頃に写した上の写真も、アフロヘアーの孫次男だったが、六兵衛の独断で丸刈りに直してイラストを描いた。

まぁ 若いうちは、いろいろ経験をしてみるのも 有りだとは思う。
だけど、今度 孫次男に会っても、やっぱり『丸刈りにしろよ・・』と云ってしまうかもしれへんけどナ・・。

 

黙(しじま)・介錯人 別所龍玄始末より・・

六兵衛の大好きな「風の市兵衛シリーズ」の作者・辻堂魁さんが、光文社文庫から出版されている時代小説『黙(しじま)・介錯人 別所龍玄始末』(光文社 刊)を読み始めた。
牢屋敷の首打役と刀の試し斬り御用、そして武家からの依頼を受け 切腹の介錯を務めるなどを生業とする浪人、別所龍玄 22歳。
凄腕の首斬人を描く「介錯人 別所龍玄始末シリーズ」3作目になる。

これまでにも 何度か六兵衛は、「江戸古地図」を取り出し、登場人物が歩いた道を辿ったりしているが、今回も まだ幼い龍玄と父親が歩いた道を辿ってみた。

読み始めてすぐの9ページ~10ページあたり、主人公の龍玄が まだ七歳の幼き頃、当時は 目的もその理由も知らず、父・勝吉の大きな背中に遅れまいと歩いた道が 蘇る場面がある・・。
それは
、牢屋敷で首を打った僧侶の末期の声を聞いた龍玄に、幼い頃 父親と訪ねた母子の店のことを思いださせた・・。

『7歳の頃の龍玄に、「すずろ歩きによい天気だ。龍玄、出かけるぞ。おいで」と、父親の勝吉が声をかけ、どこに行くのかも知らぬままに龍玄は、父親の背中を見ながらついていく・・』 そんなくだりから・・。

『勝吉と龍玄は、講安寺門前の小路を無縁坂に出た。無縁坂から、秋色の濃い不忍池が、坂下の茅町の家並の向こうに見下ろせた。池中に浮かぶ弁財天の赤い屋根が、昼下がりの陽射しに照らされて映え、寛永寺の甍を覆う御山の樹林にも、紅葉や黄葉の艷やかな色づきが始まっていた。
無縁坂を茅町へくだり、茅町の往来を南の切通町へ曲がった。
勝吉は、苔色の小袖と朽木縞の半袴を着け、紺足袋に草履の歩みはゆるやかだった。
一歩ごとの踏み出しのたび、懐手をした苔色の袖がひらひらとそよぎ、腰に帯びたごつい黒鞘の大小がわずかに上下し、壁のように大きな背中と広い肩が、のどかな晩秋の風を切っていた。』
略)
『もっとも、勝吉の歩みはゆるやかながら、歩幅はとても大きく、七歳の龍玄は懸命について行かなければならなかった。
勝吉はとき折り龍玄へ見かえり、龍玄が息をはずませてちゃんとついてきているのかを確かめると、いたか、と目を細めて頷いて見せるけれど、倅の歩みに合わせる気遣いはしなかった。
龍玄は、物心がつき始めたころから父親とはそうしてものだと思っていたから、ゆくあてを承知しているかのように、切通町、湯島天神下同朋町とすぎて行く、あの日の勝吉の背中を訝しく感じなかった。
ところが、小普請手代の組屋敷地の往来をとって、妻恋坂下の町家の角を妻恋町のほうへ折れたときは、なんだ、と少しがったりした。界隈の武家屋敷の組合辻番の前を通って妻恋坂を上がれば、二年前まで住んでいた妻恋町だった。』
略)
『妻恋坂中腹の右手に、三十段ほどの高い石段を上がる妻恋稲荷がある。その手前より、稲荷の石垣沿いに妻恋坂から分かれる路地のような立爪坂が、三組町の御駕籠町へ上がっていた。芥坂(ごみざか)とも呼ばれていて、坂の崖下が芥捨て場になっていた。勝吉は妻恋坂の途中を芥坂へ折れるとき、龍玄ではなく坂の上を見やり、呟くような口ぶりで言った。
「ここだ」』
略)

赤丸部分の「湯島」辺りを拡大した「江戸古地図」で見る。
主人公の龍玄が まだ七歳の幼き頃、当時は その理由も知らず、父・勝吉の大きな背中を追いかけながら歩いた道が よみがえる・・。

 

 

北へ渡れるか・・

ここ数日、春を感じさせるような温かい日が続いている。
だからだろうか、散歩途中にある農業用ため池で、この冬を過ごしていた 多くの水鳥たちは、北へ渡って行ったのかもしれない。
池には ほとんどの水鳥の姿を見ることが出来なくなった。
・・が、前回の当六兵衛ブログ(2025年3月8日 「どこ行った・・」)に書いている足の悪いカルガモが、ポツンと池のブロックの土手に、相変わらず座っていた・・。
しかし よく見ると このカルガモ、両足で立っているように見える。
以前には左足を曲げたままで動かせないようだったのに、少なくても2本の足で立てているということは、だいぶ左足の状態も良くなってきているのだろう。

周りの水鳥たちは、北の方へ飛び立って行ったけれど、長い旅路になるのだろうから 無理をせず、完全に足の状態がよくなるまで、この池で養生をすれば良い。
それとも暑い夏は どうしても北の方に渡って、子育てをしなければならないのだろうか・・。

隣のため池にも 理由は分からないが、今のところ 北に渡らずに残っている水鳥が1羽 泳いでいた・・。
遠くなものだから、我が「iPhone SE3」のカメラでは これが限度だ・・。

どこ行った・・

つれあいと、いつもの散歩コースを歩いた。

歩き始めて すぐの農業用ため池のそばを通ったら、段差のあるコンクリートブロックの土手に、今日もカルガモが座っていた。

3月1日の六兵衛ブログ 「鴨」

多分、3月1日の日記に書いた、足を怪我したカルガモだろう。
相変わらず元気がないように見えるが・・。

水草などの餌を食べているのだろうか・・?
近くのフエンスにカラスが止まっていたけど、弱っているカルガモを虐めたりしていないだろうか・・などと心配しても、六兵衛には、精々カラスを追い払うくらいしか出来ず、どうにも役に立たない・・。

散歩コースを一廻りして、池のそばに帰ってきてみると、あのカルガモが水に入って泳いでいた。
よく見ると、以前には ほとんど動かせなかった左足が、だいぶ動かせるようになっている・・。

元気になったんや・・よかった!
と思っていたら、水に潜った。
餌の水草を食べれれるんや。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

えっ! ちょっと まって!
1分が過ぎても、2分が過ぎても・・上がって 来ぇへんでぇ・・?

いくら待ってもカルガモは水中から上がってこない・・。
ボケた六兵衛の錯覚ではない、つれあいも一緒に見てたんやから。

どないなってんねん・・。

・・わけが分からんまま 散歩から帰って来たんやけど、また明日 池のそばを通ったら、あのカルガモ、案外 すました顔して土手に座っているかもしれへんけど・・。

 

 

日赤病院の「ヤツデ」云々

日赤病院で つれあいが点滴をしてもらっている間、今日は雨模様だったので散歩には行かず、待合室で文庫本を読みながら点滴が終わるのを待つ。

待合室横の周囲を建物に囲まれた中庭に植わっている「ヤツデ」が雨に濡れている。
そのうちの1枚の「ヤツデ」の葉には虫食いの後があり、その為か形が少しおかしい・・。

「ヤツデ」の手と手の間の部分が虫食いの所為か 少し歪である・・。

本来なら「ヤツデ」の 手と手の間は、隣のようには丸くなっているはずなのだ。葉よりも硬かった ”節” は虫に食われずに残った。
残った ”節” は、不安定な丸いまま残る必要もない。
いつのまにか最短の長さの真っ直ぐの形で残った。
・・と、つれあいを待つあいだ、文庫本から目を離し、そんな どうでもいいような事を考えていた。

 待合室横の中庭
2024年3月27日の日記に、「ヤツデ」の葉は大きくなるにつれて 5枚、7枚、9枚、11枚・・と、手の数を増やしていくが、8枚に別れた葉はないという・・などと書いている。
その時の六兵衛は、9枚に別れた葉の間が8ヶ所だから「八つ手」と云うのだと勝手に結論付けていたが、後になって分かった事は、「八つ手」のヤツは、葉が8枚に別れている・・という意味ではなく、「八」は数ではなく、「多い」という意味なのだと 後で知った次第だ。

 

いつも つれあいと散歩をするコースは、池のそばを通る。
その池には 冬場になると水鳥が渡ってきて、数羽ずつのグループになって、水草などの餌を啄みながら、のんびりと泳いでいる。

1〜2ヶ月ほど前になるだろうか、1羽の水鳥(カルガモだと思うが・・)が、他の水鳥たちから ひとり離れて、道に面した土手の近くで泳いでいた。
よく見ると、水をかくために動かしているのは右足だけで、左足は身体のやや後方に曲げたまま 動かしていない。
どうやら左足は怪我して、動かせないようだ。

その後も、散歩で その池の そばを通るたびに、左足を動かせない水鳥はどうしているのかと気に掛けながら歩いた。

それでも2,3度、多分 その水鳥ではないかと思われる水鳥を見かけたりもしたが、遠く離れた場所で泳いでいたので 確かではなかった・・。

そして先日、その水鳥がいた。
六兵衛や つれあいが歩く歩道横の、コンクリートブロックで出来た段差のある池の土手に、水から上がって 冬枯れた草の影で、隠れるように座っていた。

少なくとも これまで、池で泳いでいる水鳥が、池の土手のコンクリートブロックの段差に上がって 休んでいる姿など、まず 見たことがなかった。

なんとなく元気がないようにも 見えた・・。

餌は食べられているのだろうか・・。
仲間にいじめられては いないだろうか・・。

確かなことは分からないが、自然界に生きる動物は、怪我をしたり病気になって弱くなったりすると、いじめられたり 仲間から のけ者にされ、だから 群から離れて暮らさざるをえなくなると聞いたことがある。

生きものが 厳しい自然界で生きてゆくためには、出来るだけ強い子孫を残す必要があり、弱い仲間は切り捨てられるのだと・・。

ネットで調べてみた。
「野生鳥獣は、ある程度の怪我でも自然に回復する たくましさを持っています。むやみに手を触れたりせず、元気であれば そっとしておいてください。」・・と書いてあった。

その水鳥の 自らの回復力に期待したい・・。

 

エッちゃん!

南草津に暮らす長女から電話があって、エッちゃんが亡くなったと ご主人から知らせがあったという。

エッちゃん・・小学生の低学年の頃、近所に住んでいた同級生の女の子で、9歳か10歳になる頃に、六兵衛もエッちゃんも家庭の都合で、その町を離れ、それ以来65年 程、お互いの存在すら知らずに年を経てきたのだが・・・。

 

『黙婆』を読んだ・・。

幼かった頃、エッちゃんをはじめ 近所に住む子供たちが集まって「かくれんぼ」や「缶蹴り」などの遊びをした。
しかし、その頃のエッちゃんの笑顔の奥に、不安や恐怖の日々があった事を、六兵衛は エツちゃんの存在を改めて知る2年ほど前まで、まったく知らなかった。
その当時は、ただ のほほんと、エッちゃんの不安や恐怖など 何も気づかず、みんなと一緒に遊んでいた六兵衛だったのだ。

エッちゃんの そんな葛藤を知ったあと、たとえ六兵衛は 子供だったとはいえ、何も知らずに遊んでいた事への負い目が消えず、お互いの存在を知ってから2〜3度 手紙のやり取りをさせてもらったが、懐かしいエッちゃんだからといって、昔の不安や恐怖を思い出させはしないかと、昔の話は あまりしないでおこうと、一人勝手に思っていたのだが・・。

もちろんエッちゃん(青木悦さん)は 、教育ジャーナリストとしての仕事を全うされ、多くの公演や本を出版し、当時のご自分が経験してきた事々を強く乗り越えられておられるのだが・・。

教育ジャーナリスト・青木悦さんのサイト:http://aokietsu.no.coocan.jp/

2025年2月6日、救急車で入院。

そして 2月22日 永眠されました。

エッちゃん、本当に頑張りましたね。

お疲れ様でした。

御冥福をお祈りいたします。

『おつれあいの鉄平さん。
信頼できる友であり 大切なつれあいを亡くされて、気落ちされておられる事と想います。
私などが 何と言ってよいか分かりませんが、一人になって、涙が枯れるまで泣いて、また泣いて・・多分そんな事くらいしか出来ませんよね・・。』

六兵衛の鉄平さんへの「ひとりごと」です。

 

1月29日の日記の「その後」

2025年1月29日の日記「マウス?、ペンタブレット?」の「その後」である。
https://arukuneru.com/2025/01/29/

現在 我が家の主パソコンたる「MacBook Air」は2019年製だから、すでに6年目に入っている。
多少 動きが鈍くなっているとはいえ、今のところ それなりに働いてはくれているが、いつまで現役で頑張ってくれるのだろう・・、また 80歳に近づきつつある六兵衛が、いつまでパソコンを扱うことが出来るのか・・などなど、先の事など分からないのに、ついつい考えたりする。
また、「MacBook Air」にインストールして使っている無料のお絵かきアプリ「FireAlpaca(ファイア アルパカ)」の、その場の作業を終了する時点で、『FireAlpacaの問題レポート・FireAlpacaが予期しない理由で終了しました。』との画面が、割と頻繁に出たりするようになって、いささかの不安もある。


六兵衛は これまで、写真の加工やマンガ絵を描くなどの、遊びで使うアプリ作業は「MacBook」パソコンで行っているのだが、出来ることなら「iPad」でも使えるようにしておきたいと考え、数種類の無料の「お絵描きアプリ」を「iPad」にインストールして、それぞれ アプリを試してはみたけれど(全て無料のアプリばかり)、どのアプリの操作も六兵衛には理解しづらく、どうにも使えそうにないので、「お絵描きアプリ」をiPadで使うのを 諦めかけていた・・。


・・と そんな時、バッファローに暮らす次女から、「iPad」でマンガ絵などを描くアプリなら、Procreate(プロクリエイト)が良いかもしれない・・と 勧められた。
どうやら このアプリ、購入時の一度だけ ¥2,000を支払う必要があるらしい・・。


「Procreate(プロクリエイト)」は
有料のアプリだという。
先にも述べたが、これまで六兵衛は、遊びで使うアプリを 有料でダウンロードした事はないのだ。
しかし ここで、ふと 思ったのだ。
これまで 使い方を試してみたアプリは、すべて無料のアプリだった・・。
だから、ちょっと分かりづらくなると すぐ諦めて、次の無料のアプリへと移っていって・・そんな繰り返しだった

例え ¥2,000でも、お金を払って(1回だけの支払いだし・・)購入したアプリだから、その支払いを無駄にしないように、根性なしの六兵衛とはいえ 根気よく練習するのではないか・・そんな風に考えを改めて、気を入れ直し お絵かきアプリProcreate(プロクリエイト)を購入する事にした。

我が家には、Apple Pencilは無いが、「メーカー不明」のペンと、「Wacom タブレット」用のペン、そして「iPad」専用という「Metapen」の3本のペンがある。

「Metapen」のペンが「iPad」での お絵かきアプリ「Procreate(プロクリエイト)」に使えそうである。
六兵衛が描くマンガ絵などは、ごくごく単純なものとはいえ 慣れない「Procreate(プロクリエイト)」で描くとなれば、使い方など分からない事も多くある。
サイトで使用方法を調べながら、とりあえず 初めて「Procreate(プロクリエイト)」で、六兵衛のマンガ絵を描いてみた。


 

「少年画報」の完全復刻版・・その2

月刊漫画雑誌「少年画報」復刻版の中古本を購入した話を、前回のブログ日記に書いた・・。
「少年画報」復刻版(昭和35年1月号)の別冊付録10冊の中に、「とんちゃん」という付録も入っていて、この「とんちゃん」、他の漫画とは違った意味で、六兵衛には懐かしい・・。
その当時(昭和35年 頃)の記憶は ほとんど無いのだが、「とんちゃん」の作者の浦山しげおさんに、少年の六兵衛がファンレターを出した・・ようだ。
そして、それから60数年が過ぎた今でも、ファンレターの返事として 浦山さんがくれた『ありがとう・・』の「はがき」が、今でも六兵衛の手元にある。
「復刻版」の箱を開けてみて、別冊付録の中に「とんちゃん」があるのを見て、その浦山さんがくれた お礼の「はがき」の事を思い出し、古い物の入っている引き出しから取り出してみた。

・・改めて「とんちゃん」の別冊付録を手に取って、なんとなく懐かしいような気持ちになって、この「とんちゃん」という漫画のことや、作者の「浦山しげお」さんのことなどを調べてみようと、それらのワードで検索してみたが、特に参考になるようなものを見つける事は出来なかった。
出てくるのは「少年画報 復刻版」の付録としての「とんちゃん」 くらいのものだった。

この「とんちゃん」という漫画が、いつまで「少年画報」に連載されていたのか、その当時の記憶も記録も無い。
そして、この「とんちゃん」以外に浦山しげおさんが描かれていたと思われる漫画を見た記憶も 無い・・。

この「とんちゃん」はギャグ漫画だ。
その当時 人気だったギャグ漫画は、前谷惟光さんやムロタニ・ツネ象さん、山根赤鬼、青鬼兄弟 などの漫画で、ついでに云うと、まだ新人の頃の赤塚不二夫さんが「おそ松くん」や「天才バカボン」で人気漫画家になる前の「ナマちゃん」というカワイイ漫画を描いていた・・そんな頃の「とんちゃん」である。

ちなみに、その当時の「少年画報」の値段は ¥150 だった。
しかし その後、週刊誌が全盛の時代となって、月刊「少年画報」は1971年(昭和46年)に休刊となっ
た。