江戸川に架かる「立慶橋」

1999年に新潮文庫から出版された池波正太郎さんの時代小説
『堀部安兵衛(上・下巻)』を、今 読んでいる。

日本人が大好きな「忠臣蔵」の話や、高田馬場での助太刀の話
などで 堀部安兵衛は有名な侍である。

「忠臣蔵」での堀部安兵衛の活躍は 大まかには知っているが
堀部という名前に変わる前の、
まだ中山安兵衛といった頃の少年時代の出来事や
浪人時代の大人の侍に成長していく過程だとか
義理の叔父の菅野六郎左衛門が、高田馬場における村上兄弟
との決闘での助太刀で大活躍をし、それを赤穂藩浅野家の臣
堀部弥兵衛に気に入って、安兵衛は堀部家の娘婿になる。
そののち、赤穂 四十七士の一人として、
藩主の恨みを晴らすべく、吉良邸に討ち入りを果たす・・
堀部安兵衛のそんな物語だが・・

下巻に入って すぐの 11ページ目に
きーポケには懐かしい名前の場所が登場していた。

その文章を読んでみる・・

『 小石川の水戸屋敷の北から西へかけて、
江戸川が流れている。この川は神田上水の枝流であって、
北から西へ、いくつもの橋がかけられているが、江戸川が
江戸城の濠へ合流しようとするあたりに舟河原橋があり、
その一つ手前の橋を立慶橋とよぶ。
( 中略 )
堀内道場は立慶橋の東詰、松平讃岐守下屋敷と通りをへだてた
南側にあった。
このあたりは幕臣の邸宅が多く、堀内道場も以前には
斎藤長十郎という旗本の屋敷だったという。
( 中略 )
広沢と安兵衛が、立慶橋を東へわたりかけたとき、
向こうから来た武士が立ちどまり、にこにことこちらへ
笑いかけてきた。
その武士は、奥田孫太夫であった。』・・・と。
注)その 奥田孫太夫は、赤穂浪士・四十七士の一人。
一貫して吉良邸討ち入りを主張する急進武闘派で
直心影流の剣客でもあった。

 

江戸末期、嘉永の頃の絵地図をみると、舟河原橋、立慶橋、
松平讃岐守などの名前もある。

もう少し 拡大してみると・・

小石川の江戸川を東西に架かる「立慶橋」を渡り掛けたとき
・・と、池波正太郎さんが書かれている『堀部安兵衛 下巻』の
11ページの文章に登場する この「立慶橋」こそ
まぎれもなく、50年以上も昔の
20歳くらいの まだ若かった きーポケが
2年間 毎日のように歩いて渡っていた橋なのである。

昭和40年頃の「隆慶橋」東詰あたり。
右は国鉄飯田橋駅方面、
左は大曲から早稲田方面へ、
正面の道を進むと昔の後楽園球場へと行く。

但し、きーポケが歩いていた頃の その橋の名は「隆慶橋」といい
今 現在も「隆慶橋」として存在しているはずである。

元禄時代に安兵衛たちが渡ろうと橋の名は「立慶橋」と
書かれているが、その頃から300年も経た長い時間のうちに
「りゅう」の漢字が「立」から「隆」に変わったとしても
何の不思議もないだろう。

それから50年を経た現在の「隆慶橋」をネットで見ると・・

ネットで調べた現在の「隆慶橋」

それからも50年を経た現在の「隆慶橋」をネット写真でみると
江戸川を覆いかぶさるように「首都高速5号池袋線」が
走っているし、すぐ近くには、大きくて新しい「新 隆慶橋」が
出来ていて 交通の多そうな道路になっている。

ネットで調べた「新 隆慶橋」

きーポケが暮らした50年前の江戸川あたりには
高速道路などなかったが、流れる水は薄汚れていた。
あるとき 大雨で江戸川が氾濫をして大洪水になった事があり
川の近くにあった下宿付近一帯が浸水してしまい
慌てて家具などを2階へ運んだことなども
江戸川の懐かしい思い出のひとつである。

 

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