「新幹線」の開通や、「東京オリンピック」が開催された翌年の昭和40年(1965年)10月の19歳の秋から、 昭和45年(1970年)24歳になる少し前の春まで、わずか4年半という短い期間ではあったが、六兵衛は東京で暮らしていた。

決して人様に自慢できるような日々では なかったけれど、あれから60年が過ぎた今でも六兵衛には、どうにも懐かしい日々なのである。

とは云うものの、六兵衛の当時の記憶は おぼろげであり、写真なども ほとんど写していないので、それらしい写真をネットで探し、参考にさせてもらった・・。
それでも 微かな記憶を頼りに、今年1月6日の我が六兵衛ブログに、『遠い昔を思い出す・・』とのタイトルで、初めて東京の地を踏み、国鉄 飯田橋駅を降り、まだ その上を高速道路などは走っていなかった神田川沿いを、少し北に歩いた所にあった古めかしい建物だった電子専門学校に入学し、そこの 狭くて汚い「寮」での暮らしのことを書いた。
今回は その続きである。

2026年1月6日のブログ日記
遠い昔を思い出す
専門学校での勉強は ほどほどにして、寮の管理人さんの世話で、後楽園球場(今は東京ドームに)の試合後の観客席の掃除だとか、神楽坂の坂の途中にあった「パチンコ マリー」というパチンコ屋さんでのサンドイッチマンのアルバイトなどをしながら、寮生活も半年が過ぎた。
サンドイッチマンの仕事は、地図上に示した赤線の歩道を、ゆっくり行ったりきたりするのだ。
(昭和40年頃の神楽坂の地図と写真)
その後、一人1畳分のスペースしかない、まるで飯場で寝泊まりしているかのような寮生活を終わらせ、東京での暮らしにも少し慣れた頃だったので、学校から歩いて30分ほどの文京区関口にある、「江戸川地蔵堂り商店街」でスナックを営んでいるママさんが、店の裏で下宿屋をやっていて、その2階の これも殺風景な4畳半の部屋で、専門学校を卒業するまでの残りの1年半を暮らしたのだった。
次回の『遠い昔を思い出す・・』は『続々、遠い昔を思い出す・・』と題して、神楽坂上の横寺町での事などを・・。