・・すると お曾良は、
記憶のなかに大切に仕舞っていた言葉をとり出し、
とり出した言葉を懐かしむように、
『 優しい父でした。母は敏と言います。』と
語りはじめたのだった。
『父が、敏、と 母の名を呼んで、これをどうするのだ と訊ねる、
母が ああしてくださいとか、これは こうするのです、と答え、
父が、わかった、と 遣りとりを交わすのです。
父と母の何気ない普段の遣りとりを聞いているだけで、
私は、いつも ほっとした気持ちになったものです。
父と母の穏やかな、そんな遣りとりが聞こえただけで、
ああ よかった、と 思ったことを今でも覚えています。
言葉には言いつくせないくらい、とても安らかな気持ちでした』

きーポケが 今 もっとも新作を楽しみにしている作家
辻堂魁さんの「仕舞屋侍シリーズ」の第4作
「夏の雁」の文中の一説である。
辻堂さんといえば、何より『風の市兵衛シリーズ』が最高だろうが
他の作品も甲乙つけがたく面白いのだ。
岩槻藩勘定方の下級藩士が、上役や同僚藩士らの罠にかけられ
汚名を着せられたまま殺された。
後に残った妻と幼い兄妹は藩を追われ
極貧の暮らしの中で 病気になった母を失い
残された幼い兄妹は離れ離れに暮らさざるをえなくなる。
幼くて その意味さえわからないまま別れ行く妹を
兄は 別れをおしみ
どこまでも どこまでも追いかけて行くが・・。
こんな場面に出くわすと、どうにも泣けて 泣けて・・。
つれあいが『・・泣いてるの?』と、なかば からかい気味に
聞いてくる。
はじめに書いた文章の一説は、兄と別れた妹・曾良が27年後
仕舞屋を生業とする九十九 九十郎に
兄を探してほしいと依頼をしたときに、曾良の幼い頃の
優しかった父母の思い出などを語った話の一節である。