『牛込御門を過ぎた辺りから、つけられているような気配を
感じていた。
堀沿いの坂道を もう少し行けば市ヶ谷御門である。
西の空に残っていた赤味はすっかり消えて
近辺の武家屋敷の屋根が、黒々と影を作っている。・・・』
これは 小学館文庫の時代小説『付添い屋・六平太』の第2巻
(作:金子成人さん)「虎の巻 あやかし娘」に収められている
第2話「武家勤め」における書き出し部分の文章である。

主人公の秋月六平太は、元 信州十河藩の武士だったが
故あって浪々の身となり、裕福な家庭の娘の外出時などでの
用心棒のような「付き添い仕事」に雇われながら
糊口を凌ぎ暮らしている。
この小説自体は、可もなく不可もなくといった感じなのだが
最初に書いた「書き出し部分の文章」の中に出てきた
「牛込御門」や「市ヶ谷御門」などの名前には
50数年前の六兵衛の昔が、懐かしく蘇ってくるのである。
『六平太は ふいに庾嶺坂(ゆれいざか)へと右に折れた。
若宮八幡の方に延びる坂道だ。
「やはりな」
背後から ほどなく幾つもの足音が駆け上がって来た。
立ち止まった六平太を七、八人の侍が取り囲んだ。』
江戸時代の この辺りの、今で言う「外堀通り」を
「牛込御門」から「市ヶ谷御門」の方へ歩いていたとき
主人公の六平太は、後ろに大勢の人の気配を感じ
とっさに 若宮八幡宮に向かう小さな坂道へと折れた・・と
物語は続いている。
その とっさに折れたという坂道の名前が、小説の中では
「庾嶺坂(ゆれいざか)」となっている・・。
六兵衛の独りよがりの記述を長々と書いて恐縮なのだが・・
その坂道は何処だろうと興味が湧いた・・。

国会図書館のインターネットに公開されている「江戸切絵図」
(版元:尾張屋清七、出版年:江戸後期の嘉永2年〜文久2年)
では「若宮八幡宮」への坂道は「シンサカ」とカタカナで
彫られている。
しかし、この物語では庾嶺坂(ゆれいざか)となっている。
『御朱印神社メモ』というブログ内の「神楽坂若宮神社」に
掲載されれている「その坂道」の説明によると・・・
『当社への登り道に「シンサカ」と記された坂がある。
これが当社を由来とした「若宮坂」とも「庾嶺坂」とも
呼ばれた坂。
「庾嶺坂(ゆれいざか)」の由来は、江戸初期に
この坂の辺りが美しい梅林であったため、2代将軍・徳川秀忠が
中国江西省の梅の名所「大庾嶺(だいゆれい)」にちなみ命名
したと伝えられている。』

・・なるほど、「庾嶺坂(ゆれいざか)」とか「シンサカ」とか
呼び方が異なるのは、年代の違いによるということか・・。
50数年前の、六兵衛がまだ20歳くらいの頃に
JR飯田橋駅西口を降りて、早稲田通り(神楽坂通り)を上り
「毘沙門天の善國寺」を少し過ぎた辺りの横寺町のアパートに
2年ほど暮らしたことがある。
毎日のように神楽坂通りを歩いたりしていたのだが
少し脇に入った「若宮八幡宮」という神社のことは
その当時には まったく知らないことだった。
「神楽坂近辺」や「牛込御門」、「市ヶ谷御門」辺りの
現在の地図に、短い期間だったけれど六兵衛が暮らした
昭和40年代ころの写真を貼り付けてみた・・。

写真①:昭和40年頃の「外堀」の水も、ヘドロで汚れていた。
写真②:昭和40年頃の「毘沙門天・善國寺」。
写真③:昭和40年頃の「外堀通り」には、まだ市内電車が
走っていた。
写真④:三畳一間のアパートがあった 昭和40年頃の横寺町。