当 六兵衛ブログの、前回の日記 『只見川エレジー』では
三橋美智也さんが歌っている歌謡曲の事を書いたが
その「只見川」とは、伊豆地方を流れる川ではなく
福島県会津地方に流れる川だったと、六兵衛が勘違いしていた
事を書いた。
その勘違いとなる原因を作る切っ掛けになったのだろう
今では 消えてしまうほど 遠い昔の、若い頃の六兵衛の
ささやかな思い出話を、その 言い訳として書いてみたい。
六兵衛が 東京で暮らし始めて、やっと1年が過ぎあたり
ちょうど20歳になったばかりの頃、伊豆半島を一人で旅を
したことがあった。
「旅」などといえるほど、大袈裟な話ではないのだが
その数年前、1963年に公開された吉永小百合さんの日活映画
『伊豆の踊子』を、高校生のとき観た印象が強く残っていた事や
天城峠の情景みたいなものに ちょっと憧れなどもあり
深く考えもせず、踊り子たち一行が歩いたであろう道を
2泊か3泊のつもりで、歩いてみたくなったのだった。
決して楽しかった訳でもなかったはずの「 伊豆の旅」が終わって
それでも記念のつもりか、下手なイラストと歩いた伊豆の地図を
大学ノートに書き、それが 今でも 手元に残っている。
そこには「1966年10月5日、6日」とあるので
昭和41年、今から57年前の 六兵衛がちょうど20歳になった
ばかりの 秋の頃だった事になる。
何を思って そんな形(なり)で 伊豆へ出かけようとしたのか
若かった六兵衛の、馬鹿なりの思惑があったのだろう。
頭はボサボサ、丸い伊達メガネを掛け、足は草履、服を敢えて
汚し 破り、それをズボラに着て、毛布の入った袋だけを持ち
朝早く アパートのある飯田橋から東京駅に行き
電車を乗り継いで 伊豆半島の入り口・修善寺に着いた。
電車を降りて 天城へ向かって ぶらぶらと歩き始めた・・と
大学ノートの書き出しにある。
まず 修善寺から、立野、松ヶ瀬、出口、月ヶ瀬、市山、
三十三観音、湯ヶ島(浄蓮の滝)等々、通り過ぎた地名が
大学ノートに書かれているが、今の六兵衛には ほとんど記憶に
残っていない。
そして「天城トンネル」・・。
トンネル内は 暗くジメジメしていて、道は ぬかるみ
天井からは水滴が落ちてくる。
200mほど先に小さな出口の明りが見えた・・と
ノートにはある。
「天城トンネル」・・イメージとは異なり、情緒の欠片も
なかったようだ・・。
余談になるが、六兵衛が歩いた その年から4年後の1970年
(昭和45年)に、その「天城トンネル」の西側に
新しく「新 天城トンネル」が開通し、踊り子や六兵衛が歩いた
当時の「天城トンネル」は「旧 天城トンネル 」となり
別名「天城山隧道」と名を変えた・・という。
大学ノートの続きを読んでいく・・
「暗くジメジメしたトンネルを抜けて、早く野宿する場所を
探さねばならない・・」とある。
ただ一つ持っていた袋には、野宿用のための毛布を入れていた。
「野宿する場所を探すために、寒天橋や地獄谷を過ぎた辺りで
本道を外れ、谷川(河津川のこと)のそばのハイキングコースを
歩いた。
宗太郎事業所(山林関係の仕事場か・・)の 近くの河原に
適当な場所があったので、そこで野宿することに決めた。
川石がごろごろしている(河原だから 当たり前・・)。
大きな岩の影になる場所を見つけ、横になれるように小枝を敷き
すぐ 暗くなったてきたので毛布を被った・・が、寝られない。
川の流れの音がヤケに大きく聞こえ、辺りは真っ暗で 少し寒い。
時計は持っていないので 時間はわからない。
寝ようと すればするほど、寝られなくなる。
・・・それでも うつらうつら していたらしい・・。
気がついたら 辺りが少し明るくなっている、オッ!朝か・・と
一瞬 喜んだが、半月が雲間に浮かんでいるだけだった。
朝は まだまだ先・・と いうことらしい。
ポツリポツリと雨が降ってきて、急いで 林に逃げ込んだが
幸い すぐに止んだ。
なかなか寝られない。
それでも それでも、必ず朝は来る。
朝が来た。
朝は 嬉しい。
毛布を袋に仕舞い、すぐに 歩き出す。
川のそばのハイキングコースから本道に戻り
少し歩くと「梨本」という集落があった。
ちょうど朝の通学時間と重なり、その子どもたちに聞いた。
『今 何時頃なか?』『8時に10分くらい前だよ』
『君ら 湯ケ野の学校まで行くの?』『うん!』
可愛く答えてくれる・・。
湯ケ野は小さな町だった。
道の側に小さな映画館があって、坂本九さんの『坊っちゃん』の
ポスターが掛かっていた。」
「伊豆の下田まで行く予定だったのだが、下田町と河津町との
分かれ道に来て考えた。
昨夜のような夜を また今夜も過ごすのは 懲り懲りだったので
そこから5Kmほど先の河津町から、伊豆急の電車に乗って
東京に帰る事に決めて、河津町の方へと向きを変えた。
途中の小さな食料品屋に寄って、パンとミルクコーヒーを買い
朝飯とした・・のだが、少し歩きだして、腹具合が怪しくなり
模様してきた。
どうやら さっき飲んだミルクコーヒー、変な味がしていた。
古かったの?・・。
河津駅まで行って駅のトイレで用を足そう・・と
急いだのだが、途中 それが 周期的に襲って来る。
駅まで、あと200mくらいの所まで来たのに我慢は限界!
取り敢えず 道端の畑の影にしゃがみ 出すものを出した・・。」
・・どうにも お粗末としか云いようのない 天城越えの歩き旅は
忘れてもいいはずの50数年前の小さな旅だったが
その後の六兵衛の日々の折々に、ちょっぴり思い出す事もあったり
する情景ゆえに、今でも 僅かながら残っている そのイメージが
妙に なつかしい気持ちにさせてくれるのも事実である・・。