小慈小悲・・?

芥川堤道を「大蔵司橋」から川下に向かって歩き

西国街道に掛かる「芥川橋」で折り返して、反対側の川岸の

歩道を帰るコースの途中に「妙圓寺」という寺がある。

妙圓寺1

 

その寺の掲示板には、仏の教えのような ”ことば ”が

時々書き換えられながら張り出されていて

今年初めて その寺の前を通ったら、新しいことばが

張り出されていた。

妙圓寺2

 

『 是非しらず 邪正もわからぬ このみなり

 小慈小非も なけれども 名利に人師を このむなり 』

 

我が家に帰ってネットで調べてみると、どうやら親鸞聖人の

言葉のようだ・・。

 

「是非」:
名詞でいうと『正しいか否か』『善か悪か』『当否』等々
副詞でいうと『なんとしてでも~』の意味をもつ。

「邪正」:(じゃしょう・じゃせい)
よこしま(不正)な事と正しい事。不正と正。悪と善。

「小慈小悲」:
苦を抜く事を”慈”といい、楽を与える事を”悲”という。
仏教では、仏が人の苦しみを抜くことを”大慈悲”といい
人間のその行為を”小慈悲”というらしい。

 

言葉の意味を調べた上で読んでみると・・

『 ものごとの本当の是非を知らないし

正邪も正しく判断出来ない私です。

小さい慈悲さえも持つことが出来ないのに

自分の名誉や利益を求め、人の上に立って師になることを

望んでいる。

まことに恥ずかしい私です。』

・・と、親鸞聖人が言ったという。

 

言われてみれば、自分を戒め厳しく立派な言葉だが

「無宗教」と云えばいいのか、「無神論」と云うべきか

なにはともあれ六兵衛の、無教養と信仰への いい加減さが

言い伝えられて来た先人の言葉も、明日になれば多分 忘れて

いるであろう六兵衛なのだ・・。

 

死は冒険・・

前回(昨年末の・・)の日記にも書いたように

1年の過ぎ去る速さが、ますます半端なく早く感じる年齢に

なってきた気がする。

89作目
六兵衛が以前 作っていた「大衆娯楽小説は文庫本で」というブログの中の 2011年の年末の頃に「さし絵」として掲載していた89作目のカット絵。

 

六兵衛が、もし このまま そこそこでいいから

歳相応の健康を保てられるとして、80歳代の半ばくらいか

都合よく考えれば 90歳あたりまで、この世に生かして

もらえるかも・・との期待もあったりするが、まぁ 世の中

希望通りには いかないことも多くあるわけで・・。

 

年始 早々に・・とも思うし、年始だから・・とも思うが

この頃、よく 考えることがある・・。

己が死んだら 己自身は、一体 どうなるのだろう・・と。

地獄

当然 己の肉体は、消えて無くなってしまうのだろうが

己が死ぬ寸前まで持っていたはずの ”感情”や”記憶”などと

いった ”己の心” とでもいうか、形はないが 己が生きていた

間は、確実に己の中に存在していた ”それ” は

持ち主である己の死によって、どうなってしまうのか?

人の死後、その魂( ”心”や”感情”や”記憶”などのこと・・)は

肉体と一緒に消えてしまうのか、それとも 何処かに・・ 

残っていて・・ 

70歳半ばを過ぎた六兵衛が、今更ながら想像をしてしまう・・。

階段
(サイトより引用)

 

『死は冒険だ・・』という言葉を、テレビの番組で誰かが

言っていたのを聞いたことがある。

その言葉を聞いて、”死” の深い意味など分からなくても

何となくだが 納得できたような気もした六兵衛でもあった。

 

人が死ぬ事の確かな答えを知ろうにも、生きている者 全てが

未経験者ゆえに、それを知る経験者はどこにもいない。

だから 全ての人は、死後がどのようなものか教えてもらう

事も出来ず、ただ ただ 想像をするのみ・・なのだろう。

死は、先人からの導きや教えもないまま、人が ひとりで

初めて経験する大きな挑戦なのだから『死は冒険だ』とも

いえるのだろう。

だから 初めて、死への冒険に向かう前に ”神” という存在を

信仰し、神にすがることによって、その冒険に向かうための

心の支えにしようと考える人がいても 不思議ではない・・か。

ましてや生前に、大きな苦しみを経験してきた人にとっては

迎える未知の世界に、強い不安を感じたとしても・・。